昨日の時点では、原稿の続きを書くよりも、新たなブログを立ち上げようと考えていた。しかし頭が回らない。コミュニケーションというものは難しい。なぜ基本的なやりとりができないのか。ちょこっと確認すれば事の進展を把握できるのに。複雑な話でもなければ、こみいったはなしでもない。いや、自分は怒りすぎなのか。
つらつら考えると、自分はダメだなと思ってしまう。数学ができなかったが故に理系に行けず、中途半端な人生となった。因みに、都市工学の宇井純さんが「公害の政治学」(1968年 三省堂新書)を書き、反骨の自然科学者が社会科学を書くのだと驚かされた。彼だって、書きたくて書いたのではないだろう。水俣病の現場に肉薄する社会科学者がいなかったから、彼自身が書かざるを得なかったのだろう。
随分あとになるが、高木仁三郎が「いま自然をどう見るか」(白水社)を書いたのが1985年だ。かれは脱原発運動を先導した核科学者だ。この本は自然科学の立場から社会科学を参照しながら書いている。彼の著書は多数にのぼるが「市民科学者として生きる」(1999年 岩波書店)は晩年の名著だ。現場にありながらも自然科学者として筋を通した先達だ。
経済学では、玉野井芳郎の「エコノミーとエコロジー」(1978年 みすず書房)が日本の経済学者がエコロジー・自然生態系に光を当てた初期の作となる。もっとも公害問題を社会科学者がとりあげたのは「現代資本主義と公害」(1968年 岩波書店 都留重人編)あたりが古い。
公害問題と言えば足尾鉱毒事件が思い浮かぶ。「明治時代」の事件・闘いとして有名だ。社会主義者荒畑寒村の「谷中村滅亡史」(1970年 新泉社)の元本は「明治40年」刊であり、1907年。日露戦争の後のこと。社会主義者の多くは近代化論、生産力主義者であり、反公害運動の先頭に立ってきた人々は、被害者(患者)、地域の医師、農民、漁民が、大多数を占めてきた。
東大全共闘議長を務めた山本義隆は物理学者で科学史が専門。彼の「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(2018年 岩波書店)はこの150年の経済膨張を科学技術批判から問う好著だ。ここで付け加えるべきは田尻宗昭の「羅針盤のない歩み」(1985年 東研出版)だろう。彼は海上保安官であり、四日市公害の汚水垂れ流しを取り締まり、1973年に東京都公害局に招聘された。現場から学ぶを実践した人だ。
科学史家の剣持一巳の「現代科学の犯罪」(1968年 新泉社)も忘れがたい本。渡り鳥の標識調査を日本で組織したのは米国陸軍だったのだ。鳥類研究と軍事が結びついていたのは、ショックだった。鳥類学者・研究機関はお金がないから、お金に流されたのだろう。しかし渡り鳥と軍事とはなんのこっちゃ。細菌兵器を鳥に装着してばらまくとか、考えたのだろうか。ベトナム戦争の時代と重なるからジェノサイドに利用できると考えたのか。恐ろしい。剣持さんとは90年代の反安保闘争などでごいっしょした。
レーチェル・カーソンの「沈黙の春」農薬を告発した名著。彼女は動物学研究から米国の国家公務員になり農薬汚染を暴いた。フィ-ルドワーカーであり、名文家。余談ながら私は「Silent spring」を高校時代に読もうとして、ずっこけた。
ということで、人生思うようにいかない。何もかも中途半端で、まとまりがない。おかげで様々なことをやってきたので、あれこれと考えることもできるのか。反省もプラス思考があれば、なんとかなる。反省のないプラス思考は死への暴走を招く。私は断然前者だな。
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