無料ブログはココログ

ウェブページ

考えるための本

  • 川満信一、仲里効編: 琉球共和社会憲法の潜勢力-群島・アジア・越境の思想
     混沌としている状況だからこそ読まれるべき一冊。
  • 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司: 検証・法治国家崩壊ー砂川裁判と日米密約交渉
     今日の米日関係が米日トップの共犯関係で作られて来たことを歴史的に明らかにし、世に問うた力作。米国の核の傘の下に、私達は居続けるのか?
  • ジョン・W.ダワー: アメリカ 暴力の世紀-第2次世界大戦以降の戦争とテロ
    アメリカという国が如何に暴力にまみれた国であるかを示す好著。正規軍による戦争ばかりか、様々な謀略活動が表の顔の裏側に張り付いている。私達はこの国と如何に付き合うべきか?
  • 下嶋 哲朗: いま、松下竜一を読む――やさしさは強靭な抵抗力となりうるか

    下嶋 哲朗: いま、松下竜一を読む――やさしさは強靭な抵抗力となりうるか
    沖縄本の著作も多い下嶋さんが松下竜一さんの著作・生き方から考える視点を提示している。弱者でありながら強く生きることは可能なのか。

カテゴリー「歴史から考える」の記事

2019年9月 7日 (土)

「国益」なのか「親善」なのか?(190907)

 沖縄にはモノレールを除けば鉄道はない。わたしはテレビをもたないし、パソコンでも見れるようにしていない。おかげで、日々愚劣なことで悩まされることが少ない。

 玉城デニー知事が昨日、こう呼びかけている。「日韓友好 推進しよう」と。「肝心(チムグクル)の地域間交流の推進を呼びかけ、自らが韓国に出向き、商談会や関係者との意見交流も検討していると明かした。

 その背景には、最近の日韓関係の常軌を逸した悪化がある。沖縄においても沖縄と韓国を結ぶ航空便が縮小し、韓国のプロ野球球団が沖縄におけるキャンプを中止する方針を出している。玉城知事は「経済面のみならず、文化・スポーツ交流までもが萎縮し、各方面へ損失が広がるという負の連鎖が起きる」と強調したようだ。

 日本政府は、韓国司法の「徴用工問題」への判決への介入があり、1965年の日韓会談で、全て解決済みとする一方的な解釈を強めている。その裏には、大日本帝国が犯した罪を認めない開き直りと大国意識の亡霊があるからだろう。そもそも論になるかもしれないが、1894年-95年の日清戦争も、1904年-05年の日露戦争も朝鮮半島の領有を巡る戦争であった。そして大日本帝国は1910年、朝鮮半島を植民地支配した。戦後日本国家は、この一連の歴史をごまかしてきたが、安倍政権は過去の負をすべて覆い隠したいのだ。

 そこにべったりと貼りついているのが、1868年以降にできあがっていく近代天皇制であり、政治責任を徹底的に曖昧にしていく仕組みを権威づけながら、侵略と侵略戦争を重ねてきたのが日本という国だ。

 こうした戦後日本国家の勢いを韓国政府は観ているのではないか。堪忍袋の緒が切れて日韓軍事情報包括保護協定を破棄するまでに至ったのだ。ここに同盟関係の終わりが見え始めてきた。この先の両国関係がどうなるかは、まだ見通せない。そこにマスコミまでもが不埒な差別心丸出しの煽動記事を載せたり、番組を垂れ流している。

 新聞労連が抗議声明を出した。http://www.shinbunroren.or.jp/seimei/20190906.html

 いくらなんでもやめるべしなのだろう。当然だろう。それにしても「国益」とは何か? いかなる実際の国益があるからやっているのかを安倍政権は明確に示すべきだろう。過去の汚点を隠すだけならば、今更何が国益なのか? 戦争に負け、植民地を手放さざるを得なかったことが、悔しいのか? 

 日本という国は、軍事力を削られ、1947年「平和国家」になりましたといっても、自ら反省することをサボってきたからいつの間にか軍事力を復活させ、2014年には集団的自衛権まで合憲化するまでに至ったのだ。再び武力で他国をいたぶるだけの力を持ち、力の政治をもってしまった日本。

 政治の中に歴史問題は隠れているが、私たちはこれを明らかにして、どこからどこにむかうのかを定かにしていかなければならない。悪戯に対立を深めていては、人類の歴史を汚すだけだ。国家の力を肥大化させようとすればするほど、生物に他ならない人間は、傷を負っていく。地球規模の環境破壊も、自然災害も年々激しさをましている。こうした事案に対して、軍事力では、何ひとつ解決不能だ。また、国境というバリアを押し下げ、共生の心をもたなければ、お互いに救われない。

 無意味な対立を避け、落ち着いた親善友好をわたしは求めたい。対立を煽れば煽るほど、無意味な「国益」がもたげ、純化すればするほど一方的になり、暴力による衝突が生じてしまうだろう。そうなってしまってからでは遅いのだ。日本では先行するヘイトスピーチも横行してきたが、まだ沖縄では抑制されてきた。

 沖縄県は自然と調和し、国内外の他地域の文化に敬意を表しつつ、交流し、共に支え合い共生する優しい社会を目指した「肝心 チムグクル」の政策を推進しているという。

 私たちは、この道に自信をもって共に歩き出そう。

◎蛇足ー先日、韓国産のカボチャを買いました。野菜類は原則沖縄産を、せめて国内産に決めています。この時期の沖縄には、カボチャはありませんから。

2019年9月 5日 (木)

旭日旗を巡って(190905)

 果たして現代の「日本人」にとって、旭日旗は、どれほどなじみ親しまれているのか? 私は疑問に思う。こう書くのは、2020東京オリンピック・パラリンピック委員会が、韓国国会の文化体育観光委員会からの申し入れを拒否したことで、思ったのだ。曰く「旭日旗は、日本国内で広く使用されており、旗の掲示そのものが政治宣伝にならないと考えており、持ち込み禁止品にすることは考えていない」。(共同通信 20190903)

 同委員会は、広く使用されておりと言うが、実際広く使用されているのか? 自衛隊の旗であり、右翼が持ち出す旗ではないのか?! 明確な認識を示していただきたいものだ。

 関連して私が思うことをあげておこう。

①オリンピックとは5輪のマークに示されているように、お互いの尊重が基本の基でなかったのか。ナショナリズムの高揚と経済投資だけなのか。愛国心なるものと無縁な私には、へーぇてなものだ。

②旭日旗なるものは、明治維新政府が、天皇の軍隊を新編したのだが、このときムツヒト天皇から親授されたのが始まりだ。1870年のことだ。そもそも近代国家日本の新生のために天皇と軍隊と旗が三位一体で用いられたのだ。そして数々の戦争の中で、旭日旗は日の丸と並んで振られ、侵略を肯定し、民衆を殺すために打ち振られてきたのだ。血塗られているものだ。

③1945年9月、大日本帝国は崩壊した。軍隊は基本的に解散に追い込まれた。1947年日本国憲法が施行され、軍隊をもたずの国になったはずだった。ところがどっこい、1950年、警察予備隊が発足し、52年、保安隊、54年、自衛隊が編制され、再軍備がなされていく。旭日旗は、54年の自衛隊の発足に際して、陸上自衛隊旗(連隊旗)、自衛艦旗として採用されたのだ。

 ここで問題。ではなぜ、50年、52年にでなかったものが、54年の自衛隊の発足で採用されたのか? この明確な回答を私はもちあわせていない。だが、考えられることが2つある。予備隊も、保安隊も日本の独立以前のことだから、米英などの連合国に遠慮したのだろう。また、54年の独立後の自衛隊はより米日の共同の意思が高まり、軍隊化することを目指したからだろう。幹部連中には旧軍出も多く、わだかまりも消えていたのだろう。消したかったのかもしれない。

 あれから65年が経った今、「専守防衛」の自衛隊が、遙か遠方の敵基地攻撃を可能とするミサイルや航空母艦をもち、空中給油機を駆使する時代になろうとしている。米国などと集団的自衛権の行使も可能となっている。

 2020年の東京オリンピックで、日本の民衆は、旭日旗を振り回しながら、「頑張れ!ニッポン!」とやるのだろうか。真夏の熱砂の中でも背筋が寒くなる。熱中症で倒れるなど、根性がない「非国民」と言われなければいいのだが。あってはならないことだ。

 韓国の人々をはじめとして、大日本帝国に侵略された方々を不愉快にさせ、侵略戦争の実態を覆い隠すような開き直りを是としたら、国際親善とはほど遠くなる。私たち自身が過去に犯してきた事実を正面から見ていかなければ、再び同じような過ちを犯していくだろう。繰り返すが、あってはならないことなのだ。

2019年8月15日 (木)

「終戦記念日」のこの日に(190815)

 2019年8月15日の朝。台風10号も漸く去りつつあり、風も控えめになった。でかい台風だった。

 今朝、ここ数日悩まされていた眼科の治療に行く。それから再び那覇へ。私は沖縄に住んで6年目になるが、初めて「沖縄の8月15日」を迎えるのかもしれない。沖縄にいたら、8月15日の意味は薄い。「日本」の戦後はここ(天皇の「御聖断」)から始まったと言われているが、沖縄は投げ出されたままだ。そもそも沖縄の「戦後」はあったのかとすら言われているのだ。歴史を追うことは、そう単純ではない。

 そもそも1945年8月15日は天皇ヒロヒトが「終戦の詔勅」を国内に公表した日であって、敗戦を認めた日(1945年9月2日)ではない。そもそも沖縄にこのお達しは届いていない。すでに米軍が沖縄を統治していたからだ。沖縄の日本軍との降伏文書が交わされたのは1945年9月7日。あの戦争を巡って、沖縄においても、「日本」においても、朝鮮半島や台湾、「満州」(中国東北部)などの大日本帝国が植民地にしていた圏域を巡って、軋轢がいまだにある。そもそも朝鮮半島の分断は、大日本帝国がかの国を植民地にしていなければ、なかったであろう。今日の日韓関係、日朝関係はまるでちがっていたはずだ。日本が独立を許された52年4月28日、旧植民地の「帝国臣民」は、「日本国籍」を剥奪されたのだ。沖縄が米国の統治下に置かれるのと同じ日に。これは偶然ではあるまい。

 日韓関係は、「慰安婦問題」や徴用工問題を巡って、今や最悪の関係になってしまったが、過去に侵略した国が、その事実を居直り、再び圧力をかけることじたいが、お前は何様なんだ。沖縄にいて、戦後日本国のありようを、私は糞であると考えざるをえない。日本(日本列島)は海洋国であるからこそ近隣諸国との間に【間】があるものを、にじりよって、かみつく態度に傲慢さを禁じ得ない。

 安倍政権は韓国と戦争を始めるつもりなのか? 危機を煽って、軍拡ニッポンで儲けるつもりなのか。沖縄は、「島嶼防衛」を含めて、願い下げだ。断じて新たな戦死者を出してはならぬ。東アジアに、相互理解と信頼を得られる関係を沖縄から作るべきではないのか。

 私はこうした錯綜した歴史の総体を読み直すことなしに、私たちの歩みを前に進めることは不可能だと感じている。

 そんなこんなで、でかけます。まずは眼科へ。

2019年8月 1日 (木)

歴史をまるで知らない若者たち(190801)

 昨日のことだ。某大学のゼミ生を辺野古・大浦湾に案内した。普通は、漁港脇の辺野古テント村にきていただくのだが、ゲート前、大浦湾の瀬嵩、辺野古側に位置する豊原の丘に案内した。学生たちは暑いし、ここはどこだったのかもしれないが、彼らが、彼女らがあまりにも歴史を知らないことに、私はしばしば呆然。何度も言葉を失った。

 ここはキャンプ・シュワブゲート前であり、米国海兵隊は3つの海兵遠征軍を擁するが、沖縄・ハワイにいるのは第3海兵遠征軍だ。ところでお立ち会い(私を除き皆さん座っているが)、なぜ沖縄に米国海兵隊がいるのか、何故、日本国土の0.6%しかない沖縄に在日米軍の70%もが集中しているのか? さらに何故沖縄限定で「普天間基地の移設」を考えるのか?

 そんなこと知らない。わからない。ならば、そもそも米軍が沖縄を占領し、何故未だに駐留しているの? 戦後74年たっているんだよ。学生の皆さんが生まれたのは1990年代後半。何があった? それは(勉強していない限り)知らないよね、生まれた頃のことじゃ。46都道府県に米軍基地はごく限られている。特に関西はないに等しいから無理もない? だから米日安保体制は安泰なのだ。基地・軍隊は傍若無人でいられるのだ。この米日安保体制は日本全体の問題でありながら、世界中に駆け巡る。

 ここで私があげる時間軸がある。①第2次世界大戦から戦後の米ソ冷戦構造を巡って(主にアジアで)、②戦後「日本」国家の成立前後から今日まで、③琉球が日本・米国から受けてきた支配抑圧の中で、 この3次元を重ねて話すことになる。

 沖縄は、何故新基地建設に反対するのかをおわかりいただかなければならない。ゲート前で海上で理不尽なことが行われているが、この意味がわからなければ、どこかの誰かさんのように「暴れている輩」で、かたづけられてしまう。だから私は語るのだ。沖縄戦がなければ今の沖縄の基地問題はありませんでした。では、何故沖縄戦が生じたのか? 歴史を振り返らないわけに行かないのだ。 

 そのうえに米ソ冷戦構造が崩壊(1991年)した後の時間こそが今日の決定的な問題を形作っているのだ。主に1995年から1997年のことだ。この時間の中から新基地建設が始まった。1966年という前史があるが。

 何も知らなくても生きていける。生きてきたのだ。本当かな? しかし物を知らない、歴史を知らないと、選択の余地がない。今こうなっているんだけど、君たちもこの流れに乗るよねと。「あのー」としか言えない。だとすると74年前の、否、90年前の過ちを繰り返す。若者たちはお国に命を捧げましたとさ。今度は核攻撃の相互報復戦となり、あたりに屍が散乱し、骨を拾い出すこともままならない。当然、食べ物も、水も、大気も放射能で激しく汚染されています。こんな近未来をあなたは望みますか?

 こんな大事になるかって? 「ならない」に賭けられても困る。では、沖縄の玄関口は那覇空港だ。もしもここが使用不可になったらどうなるか? 人も物資もこなくなる。兵糧ぜめにあうかもしれない。でれなくなる。ミサイルが飛んでくる以前の話だよ。

 そう考えると、知らないということは恐ろしいことだ。与えられた選択肢に身も心も任せるしかないからだ。過去をわきまえておけば、反省点が見つかる。次は同じ過ちを犯さない。もっと精緻に考える。歴史を知らないから、安倍政権が強いのだ。そういえば故人曰く「見ざる、聴かざる、言わざる」これなのだ。安倍ちゃんの手口は古いね! 近代天皇制はたかだか150年だが、こちらはもっともっと古いね。こんな「伝統文化」にだまされるな!

 私が青年時代を過ごしたのは60年代から70年代の東京・神奈川。ベトナム戦争反対や安保反対が時流だった。今思えば、沖縄に思いを馳せていなかったのを、猛省している。自分は自然保護運動に邁進していた。それでも同時代史をある程度共有していた。自分たちが闘えば変えられると思っていた。ペケなものにはペケをつける。これが人生の落とし前だった。

 歴史を学び、歴史から考えるとは、暗記とは無縁。想像力と思考力、生きることへの愛があれば大丈夫。私も気持ちを取り戻して考えてみよう。これは20名の学生とS先生に感謝すべきなのだろう。しばらく試行錯誤するしかないだろう。

2019年7月18日 (木)

ボロボロの時代の中でー②個人史的な記憶から(190718)

 なぜ、日本という国はここまでボロボロになったのか。私には国がどうであれ、自分が問題なのだが、だからこそ国のあり方を問題にしないわけにいかない。現に私が生きているのがこの国の中であり、国の力に行動に大いに左右されているからだ。

 前回(①ー19年7月15日)、「自分は1951年生まれ」であり、というところから書きだした。今の話を書くのにそんな前に戻るのかと思う方がいるかもしれない。いいえ、今の問題は私達が生きてきた過去を抜きにはありえないからだ。いいえ、私達が生まれるはるか以前から続いていることも大いに関係があるのだ。そこで、自分に分かりやすい自分の生まれ年からスタートさせたのだ。

Ⅰ:地域社会について

 私が物心ついたのは、1960年前後だろう。当時私が住んでいたのは東京都世田谷区の田舎だった。松林や草原(くさはら)、畑(畑では遊ばなかったが)がふんだんにあった。地域に友人たちがいて、集団でも遊んだものだ。学校でいじめられても、地域の仲間達がいたのだ。夏にはスイカを食べた。まだ電気冷蔵庫がなかった時代(これは50年代後半までか)、井戸にスイカを吊るして冷やして食べた。地域の仲間達と一緒だから、1個を切ってもらい、皆で食べた。そんな時代があったのだ(今思い出した)。地域の中に子どもの集団があり、子どもを見守る親の連携があったのだろう。

 あれから60年が経った今、何処にそんな場所が残っているのだろうか。世田谷では壊滅。ここ名護ですら、子どもたちが遊べる自然環境は乏しく、子を見守る親達の連携はどうなのだろうか。外で天真爛漫に遊ぶよりも内で遊ぶ社会構造になってしまったのだ。

Ⅱ:私が社会に目を向けたわけ

 私が社会に目をむけたのは、何度も書いてきたが、1964年の東京オリンピックを前に急速に進む地元を含む自然破壊に慄然としたからだ。これはやばいのじゃないかと。まだ小学生だったから即何かを始めたわけではないが、65年、中2の時に、日本野鳥の会東京支部に入り、野鳥観察を始めた。66年ごろから東京湾の浦安辺りの干潟が埋め立てられていることを知り、当時日本列島最大の干潟・水辺の保護運動を始めたのが1967年の春からだ。大人たち、野鳥の会は動かず、若者パワーで、踏ん張ったものだ。私は勉学そっちのけでやっていた。

 時は工業化の勢いが止まらない、経済成長オンパレードの時代の中で、「自然を守れ!」。農漁民から「野鳥を殺せ!」とまで言われた時代。彼らは土よりも海よりも金だったのだ。金で自然は造れないのに、ゼニゲバたちが跋扈。私は情けない大人たちを凝視しながら大人になりました。

Ⅲ:こうした風潮は、この50年間基本的に変わらず、だからボロボロになってきた

 1973年の石油危機をもって、日本の高度成長の時代は終った。勇ましかったのは、田中角栄首相(当時)の「日本列島改造論」(1972年)まで。1969年の新全国総合開発計画の破綻は、如実に現れた。青森県六ヶ所村の悲劇。重化学工業の町(計画)から原発のゴミ捨て場へ。こうして人間が生きるための遊び場と人間関係、第一次産業は蹴散らされ、農産物は輸入頼みになってきた。金が、儲かることが全てだからだ。工業が毒を大量に発生させ、「公害」と呼ばれた時代を築いていった。

 人間の体も頭も心も金に蝕まれてきた。今思えば、自然を守ろうの声は、自然を守るだけじゃなかったのだ。人間自体が、体の多くは自然的存在なのに、心と頭が近代文明に金に、蝕ばまれて来たのだ。

 ここで書いておかなければならないことがある。経済的格差だ。この60年の変化は自然を壊し、地域のつながり等を壊してきたから、経済的格差がストレートに出てくるのだ。金の力を抑制する機能がなくなった分、露骨に。その上に、国家とは軍事がなければならぬと、社会保障の解体を進めてきたのが80年代の中曽根行革であり、それ以降のお話だ(「自己責任論」の拡散)。

 そして今思えば、日本の新・旧左翼の運動は、こうした認識が欠けていた。ここは私自身の責任でもある。日本ではいまだに緑の運動は成功していない。日本の緑の党はどうしたのか?!

Ⅳ:経済成長という柱が消え、迷走する日本丸

 この20年デフレが続いている日本。世界でたった一つの国。経済成長と言う旗頭が消えた日本。私から見たら、良かったよかったといいたいところだが、パイの分配を図る政治も消されたのだ。大企業・大金持ちの一人勝ちの経済に。過去の「栄光」に酔うしかない奴らが政治の中心にいる。だから軍拡であり、戦争こそが大金持ちになる定番なのだと笑う彼ら。米国様と頭を垂れるこの国の首相。

 ここで問題。経済成長が夢だったのか、以前は侵略が夢だったのか? 欧米列強に負けぬと。負けたら潔く、米国様に全面屈服。他方で、私達が主権者だという意識が希薄なこの国の人々。

 長いものに巻かれながら、侵略・差別に踏み出した人々。首相が呼応するかのように「日本を取り戻す」と叫ぶ。ボロボロの泥舟はやがて沈む。私たちは救命具ぐらいつけておかなければならないのだろう。

 沖縄から見ていたら、沈み行く日本丸の断末魔が聴こえると言いたいが、「断末魔」すら潰されている。沖縄は沖縄の声をあげていくしかないようだ。私たちは前を向くために、過去を振り返る。無論、連帯の環を求めたい。連帯とは自律であり共闘だ。

(つづく)

 

2019年7月15日 (月)

ボロボロの時代の中でー①(190715)

 参議院選挙も投開票日まであと6日となった。結果は如何に? このままではは強きものが更に強くなる。しかし内容がないから空洞だ。強くなればなるほど、確実にポッキリ折れる。私が何を言っても始まらないのだろう。それでも私達が迎えるだろう近未来のことを思えば、心しておかなければならないことがある。

Ⅰ:人は如何に生きてきたのか?

 例えば私は、1951年生まれだ。あえて元号をもちいれば、「昭和26年」生まれということになるようだ。1951年と書けば、朝鮮戦争の最中だったことが知れる。お隣の朝鮮半島は戦争のまっただ中にあったのだ。「昭和26年」で思い出せることは何があるのだろうか? 「終戦から6年目」廃墟の中から復興に向かう日々だったのか。時代が暗闇の中にあったとしか見えてこない。そもそも「終戦」と言う感覚は一体何か? The End

 「終戦」とは余りにも軽々しいことばだ。時代が変わったのであれば、侵略戦争の元凶だった天皇ヒロヒトが退位することは必定だったはずだ。だが1945年9月2日(連合国との降伏文書の締結日)後も、52年4月28日の後も「昭和」のままに推移していく。そうだ、「大日本帝国」が犯した侵略戦争を忘れ去るための「終戦」だったのだ。いや、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」(大日本帝国憲法第1条)とあり、第3条は「天皇は神聖にして侵すべからず」とある。第4条は「天皇は国の元首にして統治権を総攬し、この憲法の条規によりこれを行なう」とある。さらに第11条「天皇は陸海軍を統帥する」とあり、第13条「天皇は戦を宣し、和を議し、及び諸般の条約を締結す」とあるのだ。こうあったのに、あのヒロヒトは政治責任を全面的に免れた。たいしたものだ。いいや! いいや! いいや!! 私達日本人が馬鹿すぎたのだ。「終戦」にして全てを水の泡にして流そうとした。それを良しとしてきたのだ(騙されやすいタイプ)。もう少し考えてみれば、深く違和感を覚えるほどの心が頭が潰されていたのだ。天皇制と言う闇夜は深く暗かったのだ。

 こうあったからこそ、当時の米国政府・日本の権力者達(ヒロヒトを含む)は、日本の独立(52年4月28日)前の1946年11月3日に日本国憲法を公布し、47年5月3日に日本国憲法を施行したのだ。新たな憲法の下では「象徴天皇」に過ぎませんと偽装。この流れが若しも逆だったら、天皇制とヒロヒトが裁かれない道理は、法の論理とすれば全くなかったはずだ。因みに、安倍自民党が言う「押し付け憲法」論だが、押し付けられたからこそ天皇ヒロヒトは免罪され、きみたちが尊崇しているヒロヒトは天皇として生き延び、アキヒト・ナルヒトへ代替わり可能なものにしてきたんじゃないのか(時間は逆回しできない)。

 だから朝鮮半島や台湾、中国、「南洋群島」などに対する植民地支配の責任も、沖縄に対する併合と切捨ても、我が物顔でやってきた。懺悔の値打ちもないけれどとは、このことだ。

 過去を忘れてきた私達が浮遊しているのは、歴史的必然だ。こうして敗戦から74年が経つのだから、お馬鹿度は高まることはあっても下がるはずがない。岸信介の孫である安倍晋三が首相であり続けている日本。沖縄を蹂躙し、朝鮮半島を愚弄し、介入しているのも、なるほどなのだ。いやそれで済むはずがないだろう。

Ⅱ:政治について考える前に

 政治についての無関心度はいっこうに改善されていない。何故か。こうした難しい問題が原因なのか。それもあるだろうが、「今、私が生きている」と言う感覚自体が希薄なのではないのか。個人が確立されていないからだ。社会的な関係の中で自分を発見し、確立していく訓練がされていないのだ。戦前の全体主義の殻を抜けていないのだ。つまり集団の中に溶け込み巻き込まれていることで安心し、長いものに巻かれてきたのだ。

 こうした課題に答える筋道は、日本の社会構造について考えることと、自分自身の歩みを振り返ることの2つがあるだろう。私は自分自身を先ず振り返りながら、考えてみたい。(続く)

 

2019年7月12日 (金)

なぜ沖縄への新基地建設は頑なに強行されているのか?ー私たちは諦めない(上)

◎本稿は「沖縄の怒りと共に」(うちなんちゅの怒りとともに!三多摩市民の会発行)に寄稿したものです。都合で、上下に分けての掲載となりました。

 

(1)はじめに

 沖縄では、2019年2月24日の県民投票や4月21日の衆議員沖縄3区の補欠選挙でも新基地建設反対の結果を積み重ねてきた。しかし安倍政権は沖縄の民意を度外視し、工事を強行しつづけている。改めて私たちは何故こうしたことが起きるのかを問わなければならぬ。上・下の2回に分けてお送りする。

(2)6月23日の慰霊の日を巡る沖縄県と安倍政権の態度

 安倍晋三首相は今年も多数の警察官に守られ車列を組み、猛スピードで沖縄全戦没者追悼式典会場(沖縄平和祈念公園)内に駆け込んだ。その姿勢自体が見苦しい。このお陰で、シュワブゲート前での工事車両の出入りは6月21日~24日までなかったが。

 ここで首相の挨拶文を見てみよう。ほぼ前年通りだが、以下4つのセンテンスに分かれている。①前文、②沖縄戦に対する不遜な位置づけ、③「基地負担」の軽減、④沖縄振興の推進。②で安倍は、「20万人もの尊い命が失われ、この地の美しい自然、豊かな文化は、容赦なく破壊されました」と平然と語っている。誰が沖縄での戦を設定したのか-「天皇の国」を守るための時間稼ぎの戦争だったことを無視。誰が沖縄の人々を殺したか-皇軍も殺したことを無視。沖縄戦は自然災害だったのか!驚くべき無智・無責任ぶり。③の「基地負担の軽減」も、新基地建設の推進が本音であり、そこを誤魔かす空論に終始。④沖縄振興策も、沖縄が国に従属することが前提であり、そこへの誘導が本音だろう。

 玉城知事は「(前略)戦後の廃墟と混乱を乗越え、人権と自治を取り戻すべく米軍占領下を生き抜いた私達(中略)」だと、基地問題に言及している。「私たちは、先人から脈々と受け継いだ、人を大切にする琉球文化を礎に、平和を希求する沖縄のチムグクルを世界に発信するとともに、平和の大切さを正しく次世代に伝えていくことで、一層国際社会とともに恒久平和の実現に貢献する役割を果たして参ります(後略)」。

 この二人の間の隔たりは大きい。沖縄が、2度と「廃墟と混乱」をもたらさないためには、人権と自治、平和の原則に立ち、徹底的に国と対峙するしかない。2度と戦争による遺族を出さないためには、沖縄県民を挙げた努力が問われている。沖縄戦の渦中での戦死者への追悼は、過去と現在と未来を切り離せない。だからこそ、知事の結語にある「国籍や人種の別なく、犠牲になられた全ての《み霊》に心から哀悼の誠をささげるとともに」(《 》は引用者による)は、戦死者を神格化し国に命と心を捧げる国家神道の語彙を用いていることを、私は看過できない。安倍政権が琉球諸島を足がかりにして新たな戦争への道を敷き出している中で、国家に対抗しきれなくなりかねないからだ。

 それでは新基地建設が浮上して以来、何がどのように変わったのか?再検討してみよう。

(3)辺野古・大浦湾を巡る経緯から

 ざっと辺野古・大浦湾における新基地建設について、振り返ってみる。

1966年の米海軍による計画から始まった

 ベトナム戦争に本格介入した米国は沖縄島を爆撃などの最大の軍事出撃拠点にした。米国は65年から北ベトナムへ本格的な爆撃を始めた。このなかで、米国海軍は大浦湾に着目したのだ。沖縄島周辺の大部分はさんご礁に囲まれた海であり、大型船は入れない。大浦湾は一部を爆破すれば外洋から海兵隊を戦地に運ぶ揚陸艦等の大型艦が入れ、海兵隊のキャンプシュワブと接続できる。ここには弾薬庫があり、3000m滑走路を造成すれば基地機能を集約できる。しかし目の前に燃え上がっていたベトナム戦費が嵩みすぎ、米国はこのプランをお蔵入りにした。

96年のSACO合意-全額日本負担での建設案

 95年9月4日、沖縄の海兵隊員3名が12歳の少女を拉致し、レイプ事件を起こした。沖縄民衆の怒りが大きく燃え広がった。この前後に進んでいた基地のための土地収用手続きにおいて一部の地主、首長が土地の提供を拒否、さらに太田昌秀沖縄県知事が拒否した結果、代理署名裁判が行なわれた。95年12月提訴。1審判決、96年3月25日国側勝訴。同年8月28日最高裁判決、国側勝訴。

 こうした流れの中で日米政府は、ある策略に出た。96412日の橋本総理大臣とモンデール駐日大使の会談で「普天間基地を5~7年以内に返す」と合意し、沖縄県民に擦り寄ったのだ。但しこの「合意」にも条件が付けられていた。①空中給油機の岩国基地への移駐、②普天間基地機能の一部を嘉手納基地に移す、③県内にヘリポートを建設、④有事の際の民間施設利用について共同研究を始めると。よく読めば、今日に至る基地強化の芽が隠されていたが、当時のマスコミが「普天間基地返還」と煽ったこともあり、騙されていたようだ。

 それから5日後の96年4月17日の「日米安全保障共同宣言-21世紀に向けての同盟」を読めば、彼らの本音を見通すことができる。これは「安保再定義」と言うべきものであり、ソ連崩壊に伴う冷戦後も「アジアは依然として不安定」だとして米日安保体制の再編・強化を目論むものだった。

 この線に沿って、95年11月に開始された沖縄に関する特別行動委員会(SACO)は96年12月、最終報告を出した。11の施設の県内移転又は返還の目玉として普天間基地の東海岸への移設を打ち出した。ここでも「負担軽減」なる甘言を打ち出し、「日米同盟関係を強化するため」とあるように、言葉とは裏腹な実質が隠されてしまった。

 因みに11の施設の「土地の返還」は県内移設であり、北部訓練場はほぼ半分の返還(約4000ha)プラス土地・水域の新規の提供であり、提供面積を減らしながら、実質的強化を図るものだった。騒音軽減を名目にした普天間基地の空中給油機12機を岩国基地への再配置は、岩国航空基地を沖合へ拡張し、将来的に朝鮮半島・中国の両軸を見据え、岩国・嘉手納基地の連携を強化することに繋がっていった。

  なお、これらに関わる経費全額を日本政府が負担することになったが、SACO最終報告には経費負担問題については一言も述べられていない。

 その後、辺野古・大浦湾に揚陸艦等の岸壁、水陸両用車等の荷揚げ道、弾薬装弾場、1600mの滑走路2本の計画が表面化。既設物件にキャンプシュワブと辺野古弾薬庫があり、シュワブの演習場が隣接している。

③2005年、06年のグアム再編に到る流れの中で

 2005年10月米日政府は「米日同盟:未来のための変革と再編」、2006年5月「再編実施のための日米のロードマップ」をまとめ、かなり具体的な在日米軍の基地再編案だった。これらの米軍再編は米ソ冷戦構造の崩壊を受け、米日同盟の再編強化を図り、様々な事態を想定しながら、日本側の負担の強化を伴うものだった。この背後には2003年、4年に成立した武力攻撃事態法等が法制化されたことが前提にされている。

  一方で海兵隊のグアムやハワイへの移転を考えるに到っている。沖縄の名護市の市民運動や地元の命を守る会、ヘリ基地反対協議会等の新基地建設反対の闘いが辺野古沖合案を阻止したことも影響している。06年のロードマップにおいて、今の沿岸案(V字型滑走路)に計画を変更した。沖縄海兵隊の第3海兵機動展開部隊の8000名と家族約9000名をグアムに移転させることを打ち出し、移転経費の一部を日本側が負担することも確認している。特に、嘉手納以南の統合及び土地の返還は第3海兵機動展開部隊の要員と家族のグアムへの移転完了に係っており、沖縄からグアムへの第3海兵機動展開部隊の移転は、普天間代替施設の完成に向けた具体的な進展、グアムにおける施設及びインフラ整備の日本側の資金的貢献に係っていると、日本側に確認を迫り、沖縄に釘を刺している。沖縄の「基地負担の軽減」が上手くいくか否かは沖縄が協力するか否かだとの毒が盛られていたのだ。

 それにしてもグアム再編がでてきたのは何故か?米国がソ連亡き後の最大のターゲットを中国と定めたからだろう。中国華南から600km~800kmに位置する沖縄島は中国から近すぎる。ミサイルが飛んできたら適わない。もっともグアムとて、3000kmも離れていないのだから、50歩、100歩か(だからオーストラリアやハワイに移転案も浮上している)。また軍事的に対峙するためには縦深に、多重的な軍事拠点の配備が重要となり、沖縄の「負担軽減」に絡め、米国政府が日本政府から金を出させることもあるだろう。

 何れにしても、米国・米軍が沖縄を必要とする価値は明らかに下がったはずだ。06年の「ロードマップ」で、沖合い案から現行の沿岸案に変え、それでも新基地建設だと喚く両国の意図を私は計りかねていた。

 思えば、私たちは長い道のりを歩いて、歩かされてきたものだ。

(以下次号ー2019年10月発行予定)。

 

2019年6月16日 (日)

1969年6月15日から50年を迎えて(20190615)(6月16日補足)

 今日は2019年6月15日だ。ジャスト50年前の今日、私は残雪の吉田大沢から富士山に登り、お鉢巡りをしていた。なかなか忘れがたい若き日の一ページを刻んでいた。後に知ったことだが、この日の都心では反安保・ベトナム反戦の街頭闘争が果敢に闘われていたのだ。富士山頂からといえども、そんな姿を見ることはできなかったのだ(あたりまえ)。当時の私はこの程度にノンポリだった。

 「ノンポリ」と書いたが、既にこの言葉は死語になっている。「政治的でない」、或いは「党派的でない」の意味であるが、今でこそ、「ノンポリ」が当たり前になってしまい、「ポリテックス」は蹴散らされてしまったのだ。

 本稿では、それは何故かについては問わない(問わなければならないが)。その前に、当時の青年たちは何を見ながらポリティカルになったのかを考えておきたい。無論、人によって様々だろうが、高校時代の私は自然保護運動に一生懸命だった。自然保護運動といえば、何処そこを守る運動と言うことになるが、その背後に、私は、自然を破壊していけば自ずからヒトという生物は自滅していくにちがいないとの恐れをいだいていた。人間が人間の勝手で、地球上の生物の生命圏を壊しまくっていけば、人類は終わると察していたのだ。

 当時の「ポリテックス」にこうした観念はまだなかった。他方、67年10月8日、第一次羽田闘争があり、18歳だった山崎博昭君が機動隊に轢き殺されたことを、私はニュースで知ったのだった。この闘いこそ、日本でのベトナム反戦運動の幕明けとなった。佐藤首相の南ベトナムへの訪問が米国を支えることになり、これを止めたいと人々は集った。

 また、68年8月21日、山から下りてきた私は長野市内で、ソ連軍がプラハ(チェコスロバキア)に戦車部隊を送り込んだことを、ラジオニュースで聞き、強い衝撃を受けたものだった。ソ連軍は『プラハの春』(自主・民主)の闘いを力ずくで押さえ込んだのだ。東京・日本からすれば、はるか遠い世界のことだが、自由・プラハの闘いは、自由・東京の闘いにも繋がっていると感じていたはずだ。

 また、当時の私は沖縄のオの字も知らなかった。それでも当時の状況は、べトナム反戦と、70年反安保闘争が大きな課題なのだと、私もうすうすと感じ始めていたのだ。ノンポリの高校生にもこのぐらいの感覚はあった時代だったのだ。

 しかし今の若者達はどうだろうか。如何なる社会的経験を感知しうるのだろうか。ニュースに流れないばかりか、流れてもニュースを聴き取る力がない。また、私たちの青年時代は親の世代が戦争体験者だった。だから親との反発を含めて、戦争というものを聴き取ることがそれなりにできた時代でもあった。今の若者達は、こんな鏡を持ち合わせてもいない。

 そもそも私たちの世代こそが、「ポリテックス」を捻じ曲げてしまい、打ち壊してしまったのではなかったのか。国家権力に激しく弾圧されたことが大きかったとはいえ、「我こそが正しい道だ」とばかりに、「内ゲバ」に走り、力で押しつぶす消耗戦になだれ込んでしまい、夢も希望もなくしたのだった。当時の政治的運動に、政治言語に、対話の関係がなさすぎたのではなかったか。非暴力の思想がなかったのではないのか。たかが若者が過信に振る舞い、自己絶対化の挙句に奈落に落ちたのではなかったか。反省することばかりである。

 69年から20年後の89年に私は沖縄を改めて知ることになった。「沖縄に行けば、安保が見える」と、ノコノコとついって行ったのが、そもそもの沖縄との出会いの始まりになった。ただし、この認識は余りにも一面的だった。69年から20年が経つ中で、この国は安保の実戦部隊を沖縄に集中させる政治を強化していたのだ。民衆はこうした政治に自覚的でなかった。この隙間に国家権力は、ドンと楔を打ち込んできたのだ。沖縄と日本の間に深くて暗い楔が打ち込まれたのだ。これが密約まみれの沖縄の日本復帰であり、その裏で、「思いやり予算」を計上し(73年から)、それから2015年の戦争法にいたる様々な国家再編の動きだ。そして今日にいたる独裁国家の誕生。

 戦後日本国の出生の秘密とは、「皇国」日本が朝鮮半島等を植民地支配してきたことが、みごとなまでに無視されてきたことと、沖縄が米国の軍事拠点にされてしまい、そこを前提にして、「戦後平和国家」なるものが偽装されてきたことに由来する。米国が演出し、当時から日本の支配層が内諾してやってきたことだ。「平和と民主主義」がもろくも崩れ去ったのは、ある意味、必然なのだ。

 今更こうした負を突破することは、容易ではない。歴史的積み重ねを解きほぐさなければならないからだ。空間的な距離は交通機関の急速なスピードアップで移動時間を短縮したが、歴史的な分断はかえって深まってしまっているからだ。

 私たちはよほどの覚悟を持たない限り、この漆黒の闇夜から離脱することはできないだろう。しかし時代に正面から向き合い、個々人は非力であることを内省しつつ、非力だからこそ、掴むべき横議・横結が重要になっているはずだ。

 このためには、私たちが生きていくために何が問われているのかを自ら考えること抜きに一歩も進まないだろう。この50年の虚しさに負けてしまってはいられない。「勝つ方法は諦めないこと」を肝に据えてがんばろう。

 

2019年5月 2日 (木)

時は「平成」から「令和」に、なったんだって?(190502)

 昨夜の私は、何やら疲れたらしく、早々と寝てしまった。私はテレビをもたぬが、世間では「代替わり」だ、「改元」だとうかれているようだ。

 いったい、こんな形で時代が変わることで私たちの生活の何が変わるというのだろうか。お上が誰になろうとも、私たちの足下を見ることが先であり、これが第一義だろう。

 「昭和」から「平成」に変わったとき、私はこれが「日本」なのだと呆れ返った。ヒロヒトの重態騒ぎでの「自粛」、代替わりでの「祝意」の強制。89年1月、繁華街のネオンが消えた。喜びモードの行事や営業が軒並み中止された。私が常連だったジャズ喫茶も臨時休業になった。こうした力がどうして働くのだろうか。政府からの様々な形をとった「同調圧力」。自分のところだけ違うことをしたら目だってしまい、自粛したのだろうか。

 そしてこの30年で何が変わったのか。「象徴天皇制」がより根付いてきた。戦争の準備が着々と整えられてきた。沖縄では新基地建設が県民の多数の反対の声をよそに強行されている。長時間労働がまかりとおり、イジメもレイプもなくならないばかりか、より堂々と居直る連中が散見されている。

 私たちがやるべきことは、自分たちの足下を見ることだ。「天皇陛下」などと言わされ、もし、口癖になっているとしたら、おかしくないかと疑うべきだ。「陛下」とは「『陛』は宮殿に登る階段。階段の下にいる近臣の取次ぎを経て、上聞に達することから、天皇及び皇后、大皇太后、皇太后の尊称」(広辞苑)とある。そうとうお偉い人だと言うことだ。このように絶対的に敬称・敬意を付けることは、民主主義に反することは明白だ。平等の原則に反することも言うまでもない。

 例えば、アキヒト天皇は沖縄にも何度も来た。慰霊の旅だったようだ。宮殿に登る階段を取り外して、直接、「お言葉」をかけていた。しかし沖縄戦で殺された、亡くなった人の命は生き返らない。そればかりか、皇軍からスパイ扱いされ殺された人々、軍命で「集団自決」を強いられた人々、肉親が肉親を殺すまでの凄惨な死が起きていたのだ。何でそんなことが起きたのか、天皇・皇后がすりよればすりよるほど、曖昧にされていく。沖縄では教科書の書き換えの問題も起きた。抗議の県民大会も開かれた。

 事実は消せないのだ。私たちは、消させてはならないのだ。沖縄での戦争の事実を伝える作業を形骸化させてはならないのだ。私たちは、自分たちが置かれている足下をもっと冷徹に見ていこう。時代の変化を覆うベールをありがたがらない心を育みたいものだ。新基地建設などの目論見が何なのかを見定め、しっかりと反対の声を上げていこう。

 

2019年4月28日 (日)

4月28日に考えていること

 今日は2019年4月28日。1952年4月28日から67年目を迎えた。戦後「日本国」は、サンフランシスコ平和条約を米国他の連合国(49カ国)が調印することによって(ソ連、中国など多くの国は排除されたり、自ら参加せず)、この日をもって独立した。だが、同条約は、沖縄諸島や小笠原諸島などをアメリカの統治権の下におくことが明記された。日本からすれば沖縄を米国にさしだしたのだ。なお、同条約には、日本が「主権国として自衛の権利」をもつことを認め、「集団的安全保障の取り決めを自発的に結ぶ」ことができることを連合国は承認すると書かれている。そして「連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生後すみやかに、かついかなる場合にもその後90日以内に、日本国から撤退しなければならない」とある。

 これは日本の独立を認める以上当然なことだが、別途日本との協定ができれば、「外国軍隊が日本に駐屯することをさまたげるものではない」(第6条)としているのだ。米国は平和条約の裏側で、日米安全保障条約を結び(日本に結ばせ)、1952年4月28日を境に、連合国の占領軍を撤退させ、米国の駐留軍が「日本」に単独で居座ることになったのだ。

 このように米国の狡猾な政治が、戦後日本を大きく規定したが、その前提として、沖縄の軍事拠点化が据えられていたのだ。しかし戦後日本政治史や憲法史等の書籍にこの問題は、殆ど触れられていない。戦後の日本民衆運動が、沖縄を捉え始めたのは、沖縄の祖国復帰運動が60年代に盛り上がる過程でのことだった。

 斯く言う私も70年~72年の沖縄返還協定粉砕闘争の過程を振り返れば、沖縄を「忘れられた島」のままにしていたのだ。懺悔するしかない。この30年間の沖縄との関わりの中で、痛苦に思っていることだ。

 私がこの4月28日で唖然としたのは、2013年4月28日のことだった。安倍政権がこともあろうに「日本国独立の日」と称して万歳式典まで挙行したのだ。この年の13年10月、私は沖縄に居を移したのだが、この4月28日への怒りが私に沖縄に行く決意を決定的に促したようだ。あの日の強烈なザワツキ感と伴に思い出している。

 そして3年前の今日、元米兵、軍属だった男が20歳の女性を拉致し、レイプし、なぶり殺し、キャンプハンセンの周囲の草むらに遺棄した事件を起こしている。つい先日は、キャンプシュワブ所属の米兵が女性を刺し殺し、自殺しているのだ。私たちは、沖縄(の人々)をいつまでこうした目にあわせ続けるのだろうか。

 

 実は本日午後、辺野古テント村にバス1台であるグループがおいでになった。私はすっかり失念していたのだが、口頭で4・28に行くと聞いていた。申し訳ありませんでした。元全逓労働組合のOBOGの方々であり、私からすれば沖縄の大先輩方だ。小雨の中、20分余り話をさせていただいたが、終ってから冷や汗。沖縄が辿ってきた、歩んできた歴史を真摯に考え直し、日本の歴史ときちんとすり合わせないと、何も見えてこないものだと、痛苦に思う2019年4月28日。

最近のトラックバック

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30