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考えるための本

  • 川満信一、仲里効編: 琉球共和社会憲法の潜勢力-群島・アジア・越境の思想
     混沌としている状況だからこそ読まれるべき一冊。
  • 吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司: 検証・法治国家崩壊ー砂川裁判と日米密約交渉
     今日の米日関係が米日トップの共犯関係で作られて来たことを歴史的に明らかにし、世に問うた力作。米国の核の傘の下に、私達は居続けるのか?
  • ジョン・W.ダワー: アメリカ 暴力の世紀-第2次世界大戦以降の戦争とテロ
    アメリカという国が如何に暴力にまみれた国であるかを示す好著。正規軍による戦争ばかりか、様々な謀略活動が表の顔の裏側に張り付いている。私達はこの国と如何に付き合うべきか?
  • 下嶋 哲朗: いま、松下竜一を読む――やさしさは強靭な抵抗力となりうるか

    下嶋 哲朗: いま、松下竜一を読む――やさしさは強靭な抵抗力となりうるか
    沖縄本の著作も多い下嶋さんが松下竜一さんの著作・生き方から考える視点を提示している。弱者でありながら強く生きることは可能なのか。

カテゴリー「対話の中から」の記事

2019年4月 6日 (土)

今日はいい天気!(190406)

 昨日の私は概ね自宅に居たので、悪天候を殆ど感じませんでした。今日行ったら、テントの掲示物に雨が入ったり、風で吹かれたらしく、ぼろぼろになっていた。大変だったようです。スイマセーン! 今日はいい天気だったけど、カヌーチームは何回も何回も海保に拘束されても頑張っていました。

 こちらに、さくさくと入ってきて、お茶を飲み、何だか大きな顔をしている人がいた。少し辺野古の現況を説明しました。そのなかで、もっと沖縄が頑張ってよ、そうしたら、きっと日本も変わるからと。私はこういう話を認めません。沖縄に一揆をやれというのか。一揆で勝てればとっくにやっているかも。しかし沖縄頼みはやめてくださらんか。ご自身でやれることをやりながら言うのであれば、良しとしても、これはダメ。

 また予定調和というか、何もやらずに其のうち変わるさの気持ち悪い楽天主義は、なんだろう。私にはこういうセンスはない。ついつい、バカ野郎節になってしまった。自分は何もやらずに、この無責任振りに腹を立て、声がでかくなった。あるスタッフに、「何怒っていたの、大人気ない」とお叱りを受けてしまいました。そうなんだけどさ。

 夕方東京から来た若い男性は、きちんと話を受け止めてくれて、ほっとした。自分の頭で考える努力は間違いなく重要。もちろん自分だけで考えきれないから、本もあれば、様々な資料もある。そこに考える仲間を作れば、頼もしい。昔は読書会とか、自主ゼミナールとか、様々な議論を繰返してきた。また写真を撮ったり、絵を描いたり、詩を書いたりも、自ら考えることなしに不可。僅かでも自分ができることをやっていきましょうよ。お願いします。

2019年4月 1日 (月)

イーヤー・サーサー、絶望できない!イーヤー・サーサー(190401) 

 私は一昨日、「平和の反対は、無関心と言われているが」を苦労しながら書いた。

http://ponet-yamahide.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-00ab.html

(本稿は、苦労した未完の作であり、是非とも読んで頂きたい)

 今日の辺野古テント村は、忙しくもなければ、暇でもなかった。嬉しい出会いも会った。しかしこんなことがあった。

ある東京から来た女性にこういわれたのだ。「国が無視すると分かっていながら、それでもやるの。辛くない」(要旨)だとさ。一通りの話をしたうえで、2月24日の県民投票の結果(新聞記事)を示し、これを無視する安倍政権を批判し、無視されることが分かっていても、この取り組みには意義があると持論を述べた。沖縄の住民自治の意識を高め、更に全国の人々に問いたいのですと。

 それに「辛くない」のことば。息を呑み、返す言葉が出て来なかった私。無論私たちは辛いのである。悲しいし、泣きたいし。怒りもひとしおだし。フ・ザ・ケ・ル・ナ!!

 私が説明した上でのことだから、なお更なのだ。あなたは沖縄にいますよね。辺野古でみてますよね。あなたが支えている政権がやっていることですよ。こういう態度が沖縄差別なのだ。ご自身がどこにいるかを見ることもなく、沖縄を笑いものにはしていないが、透明人間であるかの言葉。

 この断絶。断裂か。愕然とさせられた。私たちは勝つ方法は諦めないことと、繰返してきた。こうした断裂も諦めさせる言説。悪意なく言えてしまうことろが、恐すぎる。

 だがこの透明人間は、長年にわたる沖縄差別の積み重ねに無知だから、気がついていないから、思わず、こういう言葉が出てしまったのだろう。

 いずれにしても、どういう言葉で反論すべきか、考えなければならないが、私が絶望していたら、自死しています。「命どぅ宝」だと信じているから、そう簡単に絶望できないし、しないです。

 そんなわけで景気づけに「イーヤー・サーサー、絶望できない! イーヤー・サーサー」

 

 

2019年3月30日 (土)

平和の反対は、「無関心」とも言われているのだが(190330)

 平和の反対は、無関心とも言われているが、如何なものだろうか。確かに、「平成の時代は平和だった」(要旨)とのたまうアキヒト天皇を賛美する「識者」も多い中で、さも、ありなん。こういうことをマジな顔して言えるのは、どうかとおもうが、こうした声を垂れ流す「識者」やマスコミの責任も重い。

 私は常に沖縄差別の実態に無関心ではいられない。沖縄を切り捨てる安倍政権の責任は言うまでもない。だが私がここで書きたい事は、ちょっと違う。「無関心」と言うとき、そこの主体は誰であり、どこにいるの? 「日本国民は無関心」、「東京都民は無関心」などと集合的な物言いではないか。だとすると、それは何故なのかが問われにくい、問いにくい。だからといって、「君は何故無関心なのだ?!」と責めても、けんかを売るようなものだ。私は何故関心を抱いたのか、持っているのかを積極的に語らないとダメなのだろう。自分が考えるとなると、これは難しい。

 

   「初めて沖縄に行った89年5月から、この30年を振り返る」

 

 本稿はその手始めの走り書きだ。①89年5月。「沖縄に行けば、安保が見えるといわれて」行ってみた。確かにそうだった。ベトナム戦争が終った(1975年4月30日)後の日本は静かになっていった。横須賀や厚木基地や、横田基地に行けばともかく、東京近辺では、戦争の影が消えていた。米日安保条約があるのだが、どこかにお隠れになってしまった。あれだけの出来事が闇夜に消えるわけがないのだが。

 確かに沖縄では数多くの基地群があり、蠢いている。演習場もあちこちにある。確かにそうだと、私は頷いた。89年5月の沖縄訪問で確認したのだった。しかしこれは一本の線に過ぎなかった。沖縄の歴史を学び、93年の天皇の沖縄訪問を考えるうちに、95年9月4日に起きた米兵による少女暴行事件。これは決定的に沖縄基地と兵隊、沖縄の人々との間を問わざるをえなくした。ここまでが私の沖縄とのかかわりの第①ラウンドだろう。

 確かに軍隊は人を殺すプロ集団だ。だからレイプも朝飯前か。だからといって、兵隊のすべてが強姦魔であるとは考えにくい。

 私は90年代半ばから自衛隊の追っかけを始めていた。北方(北海道)機動演習で、自衛隊も軍隊なのだと悟ったのだ。米軍は91年、湾岸戦争に介入していく。それから10年後の2001年9月1日の強烈な米国へのテロ事件は衝撃だった。そして、米国はアフガン戦争、イラク戦争を始めて行く。イラク戦争時の沖縄は静まり返っていた。不気味なほどの静けさ。沖縄の部隊もイラクやアフガンに侵攻し、殺戮を繰返していたのだ。同時期に日本政府は、武力攻撃事態法等の戦時立法を制定していった。2003年・4年のことだった。こうして日本は、平和憲法をもちながら、歪にも戦争できる国になってしまったのだ。こうして陸海空の3自衛隊は海外派兵の経験を積み上げていく。

 この直後に私は辺野古で新基地建設が始まったと聞かされたのだった。などと経緯を振り返りだすときりがないが、米軍・自衛隊の問題から米日両政府の政治・軍事に関心を強めざるを得なくなっていく。この時機に沖縄差別論が指摘されだした。私は米日両政府による沖縄の植民地支配の欠片を見るようになっていく。

 95年9月4日から2010年までが第2ラウンドだった。第3ラウンドは2010年12月の防衛計画大綱を知ってから、与那国島・石垣島・宮古島に行き始め、『島嶼防衛』を意識しだした時機だ。第4ラウンドは2014年7月1日の集団的自衛権の閣議決定と同日の『臨時立ち入り制限区域』の閣議決定後から今日までだ。

 日本という国が戦争する国に本格的に転換したのは、私はこの2014年だと考えている。ところが問題は、「平成(1989年1月7日から)の30年が平和だった」のではなく、日本国民の平和ボケが決定的に進んだのだった。

 60年代末から70年代初めにかけて、万を超える人たちが、反戦・反安保の戦いに集った時代は、完全に終っていたのだ。ここの総括は別途に譲らざるをえないが、無関心派が圧倒的多数になり、ネトウヨ差別文化が蔓延り、彼らと政権との交流が深くなっていたのだ。沖縄では未だに基地にもがいているのに、46都道府県は、別世界なのか。否、様々な問題の中でもがいているのではないか。それにしても沖縄は日本なのか。沖縄はやっぱり米日政府による軍事植民地だろう。こう考えなければ、説明がつかないことだらけだ。

 

  「市民・個人はどこにいってしまったのだろうか?」

 

 しかし問題はここからだ。かって、市民とか個人主義とか、自律とか言っていた人たちはどこにいるのか? 経済成長の時代が終わり、自信をもって市民・個人・自律を語れなくなっていった人たちの群れは、一部は上昇志向の下、経営者層・テクノクラートに上りつめていった。日和見・転向だ。他方は、不安定雇用などにより、自信を失っていき、自己を卑下してしまったのだろうか。「弱者」になればなるほど、強きものにあこがれる。強きものの代表である国家に畏まり、差別者として振舞っていく。ファシズムを支える人々になる。

 要は無関心とは、外在的なものへの無関心に留まらず、自分自身への無関心が、がん細胞のように全身に拡散・転移してしまった姿ではないのか。自分を見失ってしまえば、他者から要求されたことをやってしまいかねないのが、人間の性(さが)だ。国家に身命を預けよとの命令に従わされた時代が再び目の前にやってきたのだ。74年前といえば、大昔のようだが、人類史の中に照らせば、つい昨日のことだ。

 今私たちが基本的にやるべき事は、自分自身を取り戻すことだ。職場秩序の中で取り戻せないならば、新たな生き方を探ることかもしれない。貧困の問題や差別の問題と重なる地平でだから、大変厳しいだろうが、命・自治・共存・環境の流れの中で新たな道を探り出すしかないだろう。いうまでもなく、個々の人間の力は微力だ。だからこそ、お互いに支え会える取り組みが重要であり、これを考案しなければならない。

 

 「ひとまずのまとめ」

 

 県外の皆さんが沖縄に行く意味は、沖縄の闘いに連帯するばかりか、沖縄の闘いの歴史の中から自身の生き方を再考し、命・自治・共存・環境のスタンスを創り出す参考にできることだろう。自身を問うことのない連帯はありえない。無自覚であれ、沖縄を足蹴にしてきた私たちは、安倍政権の、この国の過ちを糾す道に軸足を置きなおさなければならないのだ。

 社会的な関心を探ることは、私たちが現実の社会の中に生きている以上、これを避けては通れない。全うに生きることを抑圧してくる様々な動きに抗い、共に生きる道・仕組みを作り出していこう。私は生きていくのだ。私たちも生きていくのだ。沖縄差別を許さない私たちは、あらゆる差別を許さない道を模索していこう。戦争に至る道を拒み、生きる糧などを分け合える人類として私は生きていきたい。(未完)

補足:自分で書いてみて、これは大変なことだと、嘆息。沖縄の問題を他人事にしておけば、多くの皆さんに降りかかってくるのです。沖縄だからまだ集団的に対抗できているが、「日本」では孤立を強いられているから、あれっと思ったときには手遅れになる。だから私は焦っている。沖縄を踏みつけるな、度外視するな!

 

 

 

2019年3月29日 (金)

ジュゴンが死んだ…偽善者は誰だ?!(190329)

◎以下はある方からのメールへの返信です。一部を書き換えています。ご了承ください。(ヤマヒデ)

ジュゴンが死んだ。絶滅への一歩手前にあるでしょう。
この国の無策の結果です。

あなたのせいでは、ありません。『偽善者』などと卑下してはなりません。
「沖縄に寄り添う」などとの給う連中こそが嘘つきであり、偽善の塊です。

いや失礼。あんな連中とあなたを比較したいのではありません。誤解なきように。
思いあがり、沖縄の民意を押しつぶし、自然を壊し、人殺しの政治を邁進する安倍政権と、私たちは如何に対決していくのか。

ジュゴンの死を悼み、さんご礁の海に、永遠なる願いを込めて、何よりも沖縄を再び戦場にさせない取り組みは、私たち人類の未来を照らし出してくれるはずです。
明るい希望を抱くことは厳しいですが、奴らのウソ政治の対極にある私たちは、希望を形あるものにしていかねばなりません。

ジュゴンを食べていた沖縄。あの戦争で、ジュゴンを含む海産物を食べざるを得なかった沖縄だから、今のジュゴンの生存はとりわけ貴重です。戦争で、絶滅への道を加速させられたジュゴン。安保政策で、追い立てられたジュゴン。

不謹慎なわが人間の卑しさを他の生物に押し付けるんじゃない。私たちは、もっと謙虚に生きることが求められているのです。

私たちはまだ足掻きが足りないのかもしれません。足搔いて、足搔かなければ、生命を救い出すことはできないでしょう。私たち自身が苦しむことなしにできないのです。

ジュゴンが死んだのは、この国の無策であり、私たちの手がおよばなかったからです。

それでも私たちは諦めない。ここから始めるしかありません。

私たちは、沖縄を踏みつけないために、何ができるのか? 沖縄の民意を汲み取ることです。沖縄に歩ませた歴史から考え直すことです。今の闘いに様々な方法で連帯することです。

『命どぅ、宝』を私たち自身の生きる核心に据えることです。

お互いに最善の努力を続けましょう。

 

2019年3月27日 (水)

何故沖縄で、イライラしてくるのだろうか?(190327)

 今日(2019年3月27日)は、「観光のついでに寄りました」といいながら、話を聞いていった一団がいた。まぁ、観光のついででも良い。どういうことなのかを知る気があれば。観光は光(ポジ)をみるのだが、基地問題は影(ネガ)の奥になげだされているから、観光のついでに基地問題を含む沖縄の現実を知ることは難しい。

 今夕、徳島からお出でになった一人の男性が辺野古テントに来た。ニュース等で気になったから来たらしいのだが、時間もなく、十分な説明ができなかった。私は私で埋立てが進む現場を見ている無力感から、キツイことを言ってしまう。「日本人」一般を責めてもしかたがないのかもしれないが、余りの無関心ぶりに腹が立つ。一人ひとりが変わらなければ、このまま、日本に暮らしている人たちの明日もなくなる。しかしこの感度が共有されていないから、イライラするのだ。日本は沖縄を踏みつけて、踏み潰して繁栄してきたんじゃないのか。植民地を踏みつけながら、無反省をきめこんでいるのではないのか。沖縄は米日政府の「軍事植民地」だろうに。お気軽に観光に行ける・来る場所じゃないはずだ。

 こう言ったら、会話が進まない。だからますますイライラするのだ。相手の問題意識を探りながら話す事。これが肝要なのだ。いくら多くの時間を割いてお話しても相手に聞く気がなければ、意味がない。何がしかの事が残ってくれれば、一先ずよしとする以外にないのだ。この第一歩が肝心なのだ。

 今日テント村気付けで私宛に富山のOさんから封書が届いた。中身は「第4回沖縄の旅(2019年2月25日~3月2日)備忘録」だ。何処で何があって、何を感じたのかを書かれている。私の名前も何度か出てくる。テントでゆんたくしたことを思い出す。なかなかの備忘録になっている。誰しもがこのぐらいの記録を残してくれれば、もう少し変わるだろうに。

 だが、何故沖縄に米軍基地が集中しているのかを、もっと自覚的に踏まえなければ、安倍政権が沖縄の民意を無視する意味をつかむことはできないだろう。沖縄がどうなのかから、この国の政治がどうなっているのかが見えてこなければ、わがことにならないのだ。沖縄を知ることは自分を振り返ることでもあるはずだ。

 観光は影を隠す。観光の振興は、基地・軍事問題を隠していく。だからこそ、宮古島に自衛隊がやってきたが、宮古のリゾート化は止まらない。ハワイもグアムも沖縄も同じような構造なのだ。ここに人が生きていることに目を見開いて欲しい。沖縄に行くことは自分を見つめなおすことであって欲しい。私たち「日本人」は沖縄を踏みつけてきたことを自覚しなおしたいものだ。どうしたらこれが可能になるのだろう。

 2010年以来、この国は『島嶼防衛』を掲げてきた。宮古島に陸上自衛隊の宮古警備隊ができて岩屋防衛大臣は、「琉球諸島は最前線」だと言ってしまっている。やっぱりねぇ。「昔『朝鮮・満州・南洋』、今『琉球』」なのだろうか。冗談じゃねえ。自分の足下を照らし出す努力が足りないようだ。これは私自身の問題だ。

 先にあげた富山のOさんは「沖縄に来たら佐喜真美術館へ行って、丸木位里・俊さんの『沖縄戦の図』と対面しなければならないような気になっている。沖縄戦の犠牲者たちに会ってからしか沖縄の地を踏めないような…勝手な思い込みだ」と書いている。私も沖縄に通っていた頃はこれを実践していた。ほぼ毎回行ったものだ。地面に投げ出された人々を、その生死を直視して、エネルギーをいただいて、現場に向かったものだ。だから私は、これを思い込みだとは考えていない。無論、一人ひとりの流儀があっていいだろう。

2019年2月24日 (日)

ステキな出会いの中で予感していること(190224)

 昨日、今日の辺野古テント村への来訪者が多い。各地からのマスコミも。

 昨日のラストは、まだ若い高校の先生。高校生達の関心を沖縄や基地などにも向けたいけれど、いい智恵はないですか?と聞かれてしまった。私が教えて欲しい。
 帰宅した私は、様々の人たちが語り合う場を持つことが重要だろうと思った。高校生、大学生、今座り込んででも止めたいと思う人、戦争体験者、画家・写真家、文学者、教員。様々な人たちの体験と表現力を学びあうことが重要だろう。沖縄にはこうした懇談が可能な人は珍しくない。やってみればいいのだ。近くに戦争体験者、教員、高校生・大学生がいるし、写真家も居る。むろん、座り込んでいる人も。
 そう思って今日を迎えた。期せずして、神奈川の学生(ゼミ)と「いま、戦争の兆しに心痛む美術家たちの作品展2019」のために沖縄に来ていた京都のアーティストたちが偶然居合わせた。私がこの不釣合いの同居者たちに話すことになった。学生10名余りと、アーティスト5名。年齢差が如実であり、私は躊躇なく学生を主な聞き手として話した。
 今日は県民投票の投票日なので、そこを意識しながら。この投票は沖縄だけのためじゃありませんよ、全国のためでもあり、世界が注視していますと。
 40分余りの話の上で、質問をいただいた。途中からアーティスト達に話を振った。お一人は2歳で東京大空襲を掻い潜りながら、今があると言う人。当時2歳なので全く記憶がないが、焼け跡を生き延びた(生かされた)から、戦争は決してダメだと。もう一人は当時13歳だった。空襲にあわなかったが、教育勅語などで、国に統制されていった歩みを振り返ることが、今の創作活動につながっていると。
 高校時代京都に居た人が、この10年沖縄に居るが、この作品展で、35年ぶりに恩師に再会したと、お二人できていた。
 学生達は、大先輩たちの苦労・今に到る思いを静かに聞いていた。今生きているってことをいくばくかは想起できたのではないか。私は戦後生まれだから、無論、戦争体験はないので、聞いたり、見たり、読んだりしているだけだが、今まさに戦前に回帰していると警告している。それでも今、基地建設が進む辺野古で彼女達の話をきいていると、生き延びたことの決定的な意味を思い知らされた。学生達も気付いたことがあったようだ。
 思わず合同の記念写真を撮ることになった。皆さんの笑顔を見ながら、救われた気がした。諦めるわけには行かないぞ。しばらくあちこちで、小さな懇談が続いていた。
 偶然の出会いが、お互いを感化し合えるのは素晴らしいことだ。こうしたことが人と人の環を作るということだと私は思う。私ひとりの話ではとてもこうはならなかった。この場で出会った皆さんに感謝したい。もちろん、ゼミの先生、アーティストを案内してくださったI先生にも。

2019年1月14日 (月)

あーぁ、忙しかったけれど(190114)

 この3連休は忙しかった。今日もまた。これを「土砂投入効果」と言っていいのか分からないが、何れにしても県内外からの関心が高まっていることは間違いない。

 私の話は基本30分。相手の反応をみながら、60分にも90分にもなることもある。今日は朝から沖合に米国海軍の強襲揚陸艦ワスプがきていた。この関連でどんな動きがあるのか外を注意しながら、来訪者に対応していた。
 こうしたときの来訪者はラッキーなのだ。あそこに見えるのが佐世保からやってきた船であり、海兵隊はこれで海外に戦争(演習)に行きますと。実物教育が出来るからだ。全長250m。まして浜辺から水陸両用装甲車が出たりすれば、よりリアルだ。「これが停泊できる岸壁を大浦湾に造るのです」から始められる。要は普天間の危険性の除去は口実で、ここに新基地建設が狙いなのだ。それも米軍のみならず自衛隊が使う基地になるのだ。
 
 今日の私は2度ほどテントを離れてこのワスプ等を撮りに出た。その合間に幾つかのグループや個人に話した。暗い顔をされたり、うんざりされたりすると、申し訳なくなるが、ここは泣いていただきましょう。ここはこらえていただきしょう。泣いたり、こらえたりすることから、ご自身が思い悩んできたことが見えてくるはずだからだ。
  
 私は失礼ながら、「今回の沖縄への旅は如何なる目的ですか?」、あるいは、「どんな行程ですか?」とお聞きしている。これがわかれば、そこに焦点を合わせたお話ができるからだ。だから細かい話でもいいから、一言二言返していただけるとありがたいのだ。
 
 今日お出でになった方々に、この質問に即答いただいたグループがあった。知っています、私は皆さんの集いのことを新聞で読みました、とあいなった。このひとことで、俄然、お互いに心を開いたのだ。関連した話も出来る。あなたが新聞に書かれた方ですかから始まり、人の中の多様性を大切にすることが、国に縛られ、命を投げ出されてきた沖縄の歴史を克服する契機になるだろうことや、朝鮮半島を巡る軍事情勢と沖縄などの話が出来た。
 
 突然ですが、私自身の両親や親類に戦争で殺された人は居ないと聞いている。また、民族の違いなどを痛感させられたこともないが、自分の中にある、ある種の違和感を大切にしてきた事は、今日まで重要なことだった。それは小学校時代に母親がなくなり、父子家庭で育ってきたのだ。また隣に養護施設があり、彼ら彼女らは遊び友達だった。余りにも当然なことだが、親がいようがいまいが、子どもは育つ権利があるし、そこに差別があってはならないはずだ。しかし学校と言う場で起きた彼らへの差別の視線に対して、これを許さないとの思いが沸き起こった事件に遭遇している。こうした体験から反差別の意識が生まれたが、いささかネガティブな思考に過ぎたのかもしれない。人間の多様性、個人の中の多様性に気付き、ポジティブに考えるべきだったのだろう。
 こうしたことを再確認できたことは、今日の何よりの成果だった。そしたら、このお出でになったメンバーに、案外古くからの知り合いが居たのだ(お顔を忘れていた)。名刺を手に取ってまたびっくり。懐かしやでした。(「家族写真を巡る私たちの歴史 在日朝鮮人、被差別部落、アイヌ、沖縄、外国人女性」(御茶ノ水書房刊 ミリネ編、皇甫康子責任編集)を巡るブックトークやワークショップが那覇で開かれた)。
 そんなこんなで、忙しかったが、元気もいただいた一日になった。

2019年1月11日 (金)

何故どうしてが肝心(190109、ゆんたくしながら考えた)

 2019年1月9日、午前中、来訪者が多かった。60代のご夫婦。40代の男性(教員)。たまたま相前後したが、共通する問題意識があるようだ。

 前者の男性は去年までドイツに居住していたと。ひさしぶりに日本に帰ってきたら、困惑していると。ドイツの人々は、政治的な関心を抱くのが当たり前だったし、会社の中でも議論していたと。熱くなるほどの議論しても、終われば、冷静。いがみ合うようなことがなかったと。これが日本だと、ちょっと口に出しただけで、怪訝に思われてしまうと。そうなんだろうね。日本人は知的能力が余りにも劣化している。議論する方法を学んでいない。考える気持ちが萎えている。
 私は後者の方とやや時間をとって話したのだが、彼も考えること、議論することから問題意識は始まるねと同意。自分で考える能力が剥ぎ取られているのは、日本人の頭が「中世」の頭のままじゃないかと私は指摘した。封建社会の意識。長いものに巻かれろ。愛国・忠誠心。これを越える自治とか革命の経験がない。否、あったけど歴史の屑箱に投げ込まれてきたのだ。自分に対する自信がない(育めていない)から、指示や周囲に従ってしまう。自分の意見を持とうとしないのだ。この絶望的な精神構造をどうすれば、改革できるのか?近代151年、戦後74年がこのざまなのだ。
 戦後日本は、米国の言いなりになった。戦後の支配層はこれが安泰であり、利権の構造を育んできた。沖縄は、この泥沼の中に押し込められてきたのだ。新基地建設を認めることは、これでオーケイとの意思表示にもなってしまうのだ。
 だからこそ沖縄は、「沖縄の事は沖縄が決める」と言って来たし、やってきた。沖縄は米・日のくびきから自律しようとしてきた。まだまだ時間がかかるだろう。何故どうして?と、問い続けながら、私たちは前に進みたい。
 
 46都道府県の皆様も、もはや傍観者で居てはダメでしょう。再び戦争する国づくりでいいのか? 原発大事故を再び招いていいのか? 子どもがすくすく生きられなくていいのか? 老後の心配ばかりしなければならないでいいのか? セクハラが蔓延してていいのか? どれもこれも、否でしょ。日常的な「空気」を過剰に読み込むような社会がおかしいのだ。
 悪いのは誰? 否と言うべきことには、否と言おう。政治の問題だと考えてしまうと、窮屈かもしれない。もっと自分に正直に。話し合える人を大切な友にしよう。話し合える家族にしよう。一人ひとりの日常にこそ政治的なことが組みこまれているのだ。
 昔の人は、「3人寄れば文殊の智恵」と言ったのに、近頃こんな言葉を聴くこともなくなった。いやいや「3人寄れば文殊の智恵」を想起できれば、いろいろなことが浮かんでくるのじゃないのか。私はまだまだ絶望したくない。  
 

2018年12月12日 (水)

昨日のこと-環になる(181212)

 昨日、18年12月11日は、秋田からのお客様Sさんをご案内しました。共通の友人を介してでしたが、ほぼ初めてお会いしたといっていい間柄でした。

 マズったことに私は、バスで那覇に向かう途中、車酔いしかけてしまい、大ヤバでした。でもお会いして話し始めたら、すっかり通常に戻り、しっかりご案内できました。自分も前夜の睡眠不足に気をつけないといかんと、大いに反省。
 私は、確たるコースを決めていませんでした。那覇-普天間-ホワイトビーチ-辺野古・大浦湾-嘉手納とザクッと考えていましたが、天気は悪そうなので、適宜微調整すべしでした。ガイドの際の自分の弱点は道案内。自分は車を運転できないので、車が走れる道に弱い。今回もしょっぱなで、ちょいと道を間違えたり、いささか行き過ぎたりで、誠に申し訳ありませんでした。
 このコースを一日で巡るのは欲張りです。しかしこの新基地建設の要点を知っていただくためには、これです。新基地建設の要諦は岸壁。だからホワイトビーチ(うるま市)を見ていただく。普天間にはなんとオスプレイとF-35B戦闘機、C-17大型輸送機がそろい踏み。見たくない光景ですが、明らかに負担増を示すシーンでした。このオスプレイとステルス対地攻撃機は新たな基地にもやってきます。如何なる戦争の拠点になるのか。
 辺野古でいつもどおり解説し、また、大浦湾の瀬嵩から見ていただきました。例の土砂を積んだ船が4隻、霧の中で不気味でした。
 最後に嘉手納に行った頃、漸く晴れ間が見えてきました。短時間でしたので、飛行機等の発着はありませんでしたが、4000m滑走路の広さを知っていただきました。丁度車で半周したので、ある程度広さもおわかりいただけたことでしょう。
 
 戦争とは大規模な人殺しです。目的意識的な殺人行為です。何故こんなことが許されるのか。国家って凄い・怖いです。これが許されてしまう装置をもっている? 恐ろしい。例えばこの国を考えてみましょう。いつのまにかこの国のトップはあの安倍です。日本国憲法を無視し、主権在民に蓋をして、国会を形骸化。こんなお粗末極まりない奴が威張っている。日本国は米国の同盟国として戦争を始める。在日米軍が、自衛隊が出て行く。どのような場で、どのように自衛官は人を殺し、殺されていくのでしょうか。そのとき、自衛官は何を思うのでしょうか。
 私たちは過去から学ぶことを余りにないがしろにしてきました。ここが戦後日本の最大の弱点ではないでしょうか。戦前の反省もないままに、特に侵略と隷従を反省せず、戦後も再び迷走し、欲望にくらみ、差別心を増幅させている。差別の中でも女性差別は私たち日本の男・男社会に余りにも根強い。
 これを私は「思想の複雑骨折」だとSさんに言ったのです。自分自身、Sさんとの対話の中で初めて出てきた言葉です。この問題から私たちが抜け出すのは容易なことでは出来ません。自ら行動し、自らの頭で考えながら、自律と共生の力をしっかりと育む以外にないでしょう。
 私は沖縄に来て、《環》になりたいと言ってきました。人と人を繋ぐ環です。これは自分もそうですし、自分が生み出す写真もそうでなければならないと考えてきました。
 まだまだ修行不足ですが、この道は正しいと益々考える昨今です。がんばります。
 Sさん、本当にありがとうございました。8時間にわたる対話の中で私も様々なことを考えることができました。感謝です。お気をつけて、秋田までお帰りください。
 

2018年12月 2日 (日)

次に繋がる関係が出来たら一番いいな(181202)

 私がここ辺野古テント村で皆様に話し始めて、7,8年が経つ。名護に居を移す以前からのことだ。これまでに延べ何千人に話したのだろう。また自分が各地で話した総数を加えた人たちがどれだけ、自分ごととして捕らえて、行動を始めているのだろうか。

 テント村での話はひとつのきっかけづくり。継続する中で、自分の課題と結びついていくことを期待している。
 今日、18年12月2日の日曜日は、ボチボチの来訪者。愛媛県から来られた女性3人組は、伊方原発を抱えており、話の受け止め方が真剣だった。新基地建設の概説から安倍政権の評価、日本は「米日安保国」になりさがっており、安倍は米国の奴隷頭に過ぎないことなど。ひとつひとつを咀嚼しているようだった。歴史認識の問題と、そのときどきの国際関係を抜きに理解できないことなので、ぽんぽんぽんとはまいりません。その代わり一度理解できれば、様々な問題が共通に重なってくる。また沖縄にきていただきたいし、地元での取り組みを強化していただきたい。
 午後に来た男性2人組は、お一人が「昨年、ヤマヒデさんの話を聞きました」と。今度は先輩を連れてきましたと。大阪からのお二人だった。私は25年大阪万博のことにもふれなふがら、カジノ万博は高度国防国家への起爆剤にもなっていくだろうと話した。いつかきた道を許さないことが問われており、この勝負はあと半年の内に逆転打を放てるかにかかっている。彼らの帰り際に「頑張りましょう」と言って帰られたのが、印象的だった。今後具体的な議論をやっていきたいものだ。

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