私に何ができるのでしょうか?と問われて考えていること-「Ⅱ:沖縄に係わり続けること」
この設問の第2回目を書く。Ⅰは「人間として生きる」(180808)だった。総論とはいえ、抽象的過ぎたかな。2回目は「沖縄に係わり続けること」だ。一度座り込みに来たから、沖縄関連本を読んだからなどの単発的な関わりでは、身につかない。こういうと、またハードルが高いと思われるかもしれないが、如何せん、ハードルは高いのだ。しかし最初から高い目標を掲げることではなく、係わり続ける中で、納得し前に進めばいいのだ。
以下、自分流を書きながら、参考意見を付記したい。
①何で沖縄に係わり始めたのか?
私の場合は偶然が多いが、必然もあった。1989年の春のことだ。「沖縄に行けば、安保が見えるよ」と呼びかけられたのだ。当時私が属していた東京都職員労働組合の青年部有志が行なっていた沖縄反戦の旅(正式名称は覚えていない)だ。呼びかけ人は友人であり、私はこれはおもしろそうだとのお気軽な発想から行くことにした。
東京に居て、安保が見えたのは、72年8月から11月の相模原戦車搬出入阻止闘争や73年秋の横須賀空母母港化阻止闘争などであり、特に75年の4月30日のベトナム戦争終結(ベトナム人民の勝利)以降、安保・軍事は見えにくくなった。目隠しされたのだ。
しかし日米安保・軍事協力関係が消えてなくなるはずもなく、78年に「日米防衛協力指針」ができ、「シーレーン防衛」が叫ばれ始めていた。軍事ほど具体的なものはないはずなのに、見えないのはどうしたわけか。戦争は文書・口ばかりではできないのだ。
私にとって、この沖縄体験は貴重な経験になった。なるほど、こんなに基地があり動いているのかと、見て取ったのだ。沖縄戦からも学んだし、石垣島で行なわれていた白保のサンゴ礁を守る闘いも印象深かった。
また、89年という年は、決定的な時間だった。沖縄戦を含むアジア太平洋戦争の最高責任者だった天皇ヒロヒトが同年1月7日に死んでいる。代替わりの時間が流れていた。私はこうして戦争の被害と加害を同時に問わなければ何も見えてこないことを学んだのだった。
こうした学びから、もともとフィールドワーカー志向の強い私は、自衛隊の追っかけを始めていったのだ。
②沖縄の人たちとの出会いがあったから
89年5月の旅は、戦跡や基地を見ただけではない。沖縄の人と出会ったのだ。知花昌一さんは、87年の国体のソフトボール大会の会場で日の丸を引きずり下ろしていた。反戦地主でもあった。チビチリガマの生存者から聞き取りもやっていた。真っ暗なチビチリガマの中で話を聞いていたら、私は驚愕するばかりで、ウ、とかアッとかしかなかった。反応は言葉にならなかった。
また、現在、連合沖縄会長の大城紀夫さんは、当時宜野湾市職労の青年部長だった。色々とお世話になったものだ。
やはり人との出会いが、自分を創っていくのだ。出会いを通して自分を育てていくのだ。このとき、聞き役に回りながら、自分の反応を返せるように、学び、考えていかなければならないのだ。こうした積み重ねが「継続は力」になってきたのだ。
③95年9月4日の米兵3名による少女レイプ事件の衝撃
年に2,3回は沖縄に通うようになっていた。95年9月4日に起きた少女レイプ事件は私にも電撃が走った。小学校6年生の女の子を拉致してレイプしてしまう兵隊の浅ましさ。情景をチラッとでも思い浮かべれば、恐怖でしかないことが、男の自分にも分かる。
確かに軍隊は人殺しを制度化している組織だ。人を制圧する能力や、泣き喚こうがかまわずの心も育まれている。軍隊とは兵隊とはそんなものだ。
この事件を知ったのは、私が東京に居たとき。12月に沖縄に行ったが、幸か不幸か、何の兆候も見えなかった。静まり返っているのだ。この静まり返っている沖縄に何を見たのか?沖縄の苦悶をみたといえば、きれいごと過ぎるだろうが、やはり言葉が見つからなかった。
私の沖縄に対する見方はこの事件から変わっていった。事実関係の内外に表白している心情への問いかけ。もっと真剣に沖縄に向きあわなければと実感させられた。
④04年4月からの辺野古での座り込みと同年8月の沖縄国際大へのヘリ墜落の中で
04年6月、東京で辺野古での座り込みの報告を聞いた。これは自分が行かなければとストンと落ちた。私にとって海を守る闘いは67年以来のこと。無論、基地建設反対だ。同年7月、辺野古の海に出た。きらきらの海に痛く感動。守るしかないでしょ。しかし当時の私は大の水嫌い。怖かった。ここらは省略するが、当時の私を鍛えてくれたMさんらに感謝している。
8月沖縄国際大にヘリが墜落。東京ではオリンピック報道でしらぱっくれていた。米軍が大学構内を7日間、占拠していた。9月には辺野古でのボーリング調査が始まり、海上行動も始まっていた。
こうして沖縄と日本の対比が鮮明になっていった。そういうことなのか?
このとき、私たち「日本人」への弾劾の声はきつかった。貴方は取材に来ているのか、闘いに来ているのか? 私はどぎまぎしながらも、こう答えていた。闘いに来ており、だからこそ取材したいと。
もとよりこのor は矛盾するのだ。矛盾を承知の上でやるしかないのだ。
⑤沖縄への罪責を抱えながら
ここが一番大切なことだ。私たちが沖縄を知れば、大日本帝国の歴史以来沖縄を併合し、差別し、利用してきたのだ。私が「日本人」である限りこの関係は氷解しない。沖縄に対する罪責を考えなければ、何をやっても50歩100歩なのだ。
私がこう考えてきたのはある意味、最初からだが、10年からの「島嶼防衛」や12年のオスプレイの強行配備以降、益々こう考えるようになった。沖縄は米日共同の軍事植民地支配下にあるのだ(この稿、あらためて再考する)。
⑥今がラストチャンス?
私はこういってきた。短期的な取り組みと、長期的な取り組みを重ねながらやっていこうと。前者はこの1、2年の間の目標。後者は、10年から100年の目標。だが向こうは待ってくれない。19年明文改憲を通して、戦前のような黙って働く臣民を造るのだと。独裁国家万歳か?!
今、民主主義がありますか、独裁ですか。今平和ですか、戦争に向かっていますか?この答えを私たち一人ひとりが出していかなければならない。これは沖縄のためではなく、自分のため、私たちのために。これが出来て初めて、沖縄と日本の間にある分断を超えていけるだろう。私は超えて生きたい。
⑦果てしのない旅だが、諦めない
29年間のことを端折りながら書いてみた。まとめてみると心が苦しくなる。しかし一歩一歩積み重ねてきたからここまできたのだ。一人ひとりとの出会いがあり、協力があったからここまできたのだ。私は羅針盤を作り出してきたのだ。
長続きする工夫は重要だ。めげたり、迷ったりした時にどうするのか。自分流を作り出して。沖縄と出会い、長続きするコツはいくらでもある。様々な文化であり、歴史であり、自然だろう。試されているのは私たちの人間力なのだ。(180816)
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